言葉の意味をしっかりと分かっていることって非常に大切なこと今日つくづく思った。というのも、仕事で文書を書かなくてはならなくて、しかも明日が締め切りでかなり早いペースで書かなければならない。僕は元々国語が苦手で、ボキャブラリも少ない。このように、短期間である程度まとまった文書を書くには、言葉をできるだけ多く知っている必要があると感じた。しかもただ何となく聞いたもしくは見たことがあるというレベルではなく、意味をしっかりと理解し、自由に操れるレベルにないといけない。では、どのようにしてボキャブラリを増やしていけ

仕事上の成果物と言えば、僕の場合、ドキュメントなど文書の形で提出することが多いのだが、なかなか簡単に書けるものではない。ある程度調査して、その問題に対しての結果が出ていても、どのような構成にまとめるべきかで悩んでしまう。最初に構成を考えておいて、それから文書を作成していくという正攻法をなかなか実践できない。

だいぶ前にオープンソースの数値解析ソフトを自宅のPCにインストールしたのだが、最近やっと本腰を入れて取り組み始めた。まだ備わっている機能の半分も理解していないが、業務外なのでマイペースで進めていこうと思う。でも、本音はマスターして、周りに広めていきたいのだが、いつのことになるやら・・・。ところで、オープンソースだからといっても、十分商用のコードに何ら遜色ない出来である。確かにオープンソースの数値解析ソフトを操るには、それ相応の数値解析に関する知識や背景となる物理理論からそのソフトが書かれているプログラミン

素人のように考え、玄人として実行する―問題解決のメタ技術 (PHP文庫)作者: 金出武雄出版社/メーカー: PHP研究所発売日: 2004/11メディア: 文庫購入: 8人 クリック: 128回この商品を含むブログ (61件) を見る

今この本を読んでいる。2/3くらいまで読み終えたところ。著者は、カーネギーメロン大学の著名なロボット工学の先生で、内容はどうしてもアカデミック、研究者としての色が強いが、研究を遂行する上での考え方は我々メーカーの研究開発の現場で働くエンジニアにも大いに参考になると思う。何か解決すべき問題があるとき、素人的に考えてみることが有用であると説いている。ただ、素人といっても、全くの"ど素人"という意味で使っていない。著者が言うには、玄人(ここでは専門家も含む)発想では、どうしてもその分野に精通していることもあり、問題の解決法をどうしても今までのパターンにはめてしまいがちになり、それではオリジナリティのある研究、仕事がなかなかできないとのことである。専門家であっても、問題を考えるときはじめは、問題を型にはめずに、考えることが重要だと主張している。もちろんこのように素人的に考えるのだから、問題をどう解決するかについてのシナリオは、かなり大胆なものになりうる。でも、たとえ大胆でもそのシナリオによって、問題を解決されたとき、その仕事はインパクトのあるものになるだろう。この素人的な大胆な発想を実行するには、専門家としての幅広くかつ深い知識を持っていなければならないと説いているのは、大いに納得できる。

今、主に既存の数値計算プログラムを元にして、それを拡張する仕事をしている。このような既存のものにプラスアルファを付け加える作業を行うには、まずは元となるソースの解読から取りかかることから始めるのが普通である。ソースにはそれなりのコメントが書いてあり、どのような処理をしているのかは、だいたい分かる。でも、「なぜこのような精神でこんな処理を施すのか」という大元になるロジックが分からない。このような大元となる精神は、ソースのドキュメントという形で残すのが普通だと思うのだが、悲しいのか(それとも恐ろしいのか)僕の

メーカーで数値解析業務に携わるようになって、一年がたち、それなりに業務もこなせるようになってきているが、まだ知識が全然足りんなと常々思う。解析を実行するにあたり、一番重要なのは、実際の対象としているシステムを模擬することである。ここでシステムとは、例えば実験環境や、製品である。システムをコンピュータ上で模擬するには、対象物について格子上に切るとか、そこで起こる物理現象を方程式に表すなど、モデル化する必要がある。このモデル化を行うのに、一番労力を費やすのである。というのも、実際の環境に限りなく近づくようにモ

なんやかんやで、GWが明けてしまった。そして、前回の日記から1ヶ月以上ブランクを空けてしまった。書くことは、通勤中の電車の中などで思いつくこともあるのだが、帰宅すると書くのが億劫になってしまって結局書かないことが何日もあった。だいぶ前に書いたことだが、僕は文章を書くことが苦手なので、日記を定期的につけることで、少しでも文章力のupにつなげたい目的があった。最近この基本となる目的を忘れてしまっているようである。